暮らしの最近のブログ記事

2011年10月23日

おうまさん再び

kikkasho.jpg

昨夜、家飲みで友人とばか騒ぎして、そのまんま床についてしまった。
ので、昼まで爆睡していたぼくをiPhoneが叩き起こしやがった。
たいていぼくはひねくれているので、1回目の電話では出ない。
掛け直してこないならわざわざ答える必要もない電話だろうと割り切っている。
もちろんそれが前髪ぱっつんな乙女の電話なら話は別である。
それはさておき、電話がまた掛かってきてしまった。
これはさすがに答えねばなるまいということで電話に出てみた。

「今何してる?寝てた?家?じゃあ15時に淀間に合うよね?じゃ」
ほぼほぼこんな感じの電話である。選択肢ナッシン。
半強制的に寝ぼけ頭で京都競馬場まで向かうはめになったのである。
もしぼくが西宮にでも住んでいたら話が違っていたろうに……と思ったが、そしたら阪神大賞典あたりで呼び出しが掛かるのだなと思うとそれはそれで憂鬱であった。

で、きょうはわざわざ呼び出しが掛かるくらいのイベント、すなわちG1レースが行われる。
さらにこの菊花賞は特別らしく、オルフェーヴルという馬が三冠を掛けて戦うレースなのだ。
そのすごさについて友人はいろいろと説くのだがぼくはへーとかふーんとしか答えられない。
だっておうまさん詳しくないんだもの。
ということで、逆転の発想である。彼はネギが大嫌いだ。
そんな彼にぼくはこう伝えた。
「あーたはネギが大嫌いだけれども、もし一本10,000円するネギが食べられるとして、それをありがたがるかい?」
納得していただけたようである。 要はぶたに真珠、のぼるに菊花賞である。

ともあれせっかくのG1。馬場で行方を見守る。
で、冒頭の写真の直後、オルフェーブルが三冠という偉業を達成。
「そんなにすごいのかい?」というぼく。
「ディープインパクト以来、って言ったらわかるか」
これまたわかりやすい。ディープインパクトフィーバーはド素人のぼくもニュースで何度か目にしている。
おめでとうオルフェーブル。
実感はないけどぼくは歴史的瞬間をその場で見たんだ。
実感ないけど。

まあともあれではあるが、JRAの競馬場はファーストフードも充実してたり、昼間いけばいろいろイベントやってたりと結構楽しいことになっているそうなので、いきなり呼び出しじゃなくてもっと計画的に呼び出していただきたいなと思った次第。

2011年7月18日

住んで都に

銀月アパートメント
今の部屋へ引っ越したのは、たしか一昨年の12月。
かれこれ1年と半年経っていると思うと、ただただ驚いてしまう。
失恋。
辛気くさい話だが、部屋を移ったきっかけがそれだ。
あれ、そのとき既にこのBlog始めてたような。
ということで当時の記事を確認してみたが、失恋云々の話は避けたようだ。
今でこそ、こうサラリとBlogの記事にできるわけだけれども。

ともかく、その当時のぼくは事実から逃げていたことは確かだ。
前向きな新生活を建前に、自分と向き合うことを避けた。
その結果か、体裁だけで口にした新生活は、自宅以外で送ることが多い。
この街は、ただ寝るだけの街になっている。
まったく、せっかく住むなら少しはいい環境、
なんて考えたのがもったいない。

当時のBlogには「かつて働いていた街」とか書いていたのに、
このあたりで知っているのは、
近くに店構えのすてきな洋食屋さんができた
フリーター時代に通っていたおにぎり屋さんが健在
マンションの裏にバイオリンの工房がある
近所の中華料理屋は案外うまい
くらい。
誰でも知ってるような、誰でも行きそうなところ。
自分に蓄えられているこの街の情報はその程度。
もう少しくらいはわかっているつもりだったのだが......。

つい先日、お世話になっている人に
「どこそこにある古本屋面白いけど行ってみた?お前絶対好きそうやで」
なんてことを少し前に言われ、今日ふとそのことを思い出した。
場所は、およそぼくの家から自転車で5、6分といったところ。
幸いにして、お店の名前はiPhoneにメモしてある。
手帳じゃないのは無粋と思えど、ITを活用するのも今の生き方である。
店の名前と、インターネットで調べた地図をたよりに、そのお店へ足を運んだ。

そこは、とてもとても小さなお店だった。
適度に間隔を開けてレイアウトされた、本棚やテーブル。
書棚を眺めてすぐ「あっ」と心の声が上がった。
読みたかった本、ずっと気になっていた本、ぼくの好きな本。
ぼくと店主の趣味が似ているのか、ぼくの琴線に触れる本が並んでいた。
こんなお店が自分の家から数分で行ける距離にある。
そう考えるだけでわくわくしてきた。

教えてもらわなければ、足を運ぶ前にまた引っ越しをしていたかもしれない。
すてきなお店、すてきな公園、すてきな人。
住めば都、なんて言葉はあれど、住んだだけでは都にならない。
都とするならば、自分からそこをよき地であると言えるようにならなければ。

小さな古本屋さんとの出会いが、ぼくに不思議な視点を与えてくれた。
幸か不幸か、しばらく引っ越すつもりはない。
数ヶ月、数年経ったとき、自分はこの街をどう見ているだろう。
体裁だけの新生活から、本当の意味で新生活をはじめよう。

今度はぼくが「なになにってお店、いいですよ」って言えるように。

2011年4月25日

むつかしいよ人生は。

水面

お酒を飲んだ。
平日の頭に。
誘われたら断れないタチ......というわけでもないのだが。
断る理由がない以上、楽しい誘いには乗る主義で。

帰りの電車ではもんもんと(でもゲームしながら)仕事のもやもやを考えてた。
あれしなきゃな、あの仕事どう手をつけよう、そういや連休の予定決めないと、あっ負けた。
そんな感じで大阪まで戻って来てのお誘い。
ガスを抜けるときに抜いておく。
そんなことを言い訳にして、ふらっと顔を出してしまった。

ほんの1、2杯飲んだだけだけど、それは心地よいひと時で。
「お酒なんて現実逃避ですよ、お客さんにはただ楽しく飲んでもらえたらそれで、ね」
とは、とあるバーテンダーさんの言葉。
親しい人とお酒を飲む、それだけで世界は楽しく美しいと思える。
楽しいと言葉にできる。
そのことに感謝。

帰ってからFacebook見たりTwitter見たり。
これはまたいつもの自分。
孤独をごまかすために、世界とのつながりを気取る。
能天気な書き込みに混じって、不穏なことを書いてる人もいる。
個人的なことだったり、社会的なことだったり。
特に、個人的な煩悶を目にするといたたまれない気持ちになる。
つい、自分に何かできることはないかなんて考えてしまう。
これが余計なおせっかいだとは気づかずに。
その場しのぎで人を助けることが、必ずしも双方の救いになるとは限らず。

そんなことを思ってから、もう一度「自分にできることは何か」を考えてみる。
何もない。いや、何もしない。
見守り、相手を信じることならできる。
その人の行動・選択を信じ、見守り、心から祈る。
病な自分にできる、精一杯のこと。
半径1mのことしか考えられないバカなりに、遠い彼方のことを想おう。

2011年2月28日

結婚式

誓いのキス

昨日、いとこが結婚式を挙げた。
親族の結婚式に招かれたのは、これが初めてになる。
彼女とは自分が子供のころこそよく一緒に遊んだものの、物心ついてからは一緒にあうこともなくなり、すっかり疎遠な関係となっていた。
それが数年前に祖母が他界したときに再開、偶然にも、今回の新郎と伯母の対面にも立ち会うことになり、妙な親近感を覚えるようになって。

そんな彼女もついに結婚である。
祖母の家でいつも一緒にあそんでいた従姉妹がウェディングドレスに身を包んでいた。
伯父に手を引かれ、バージンロードを歩いていく花嫁。
しばらく会っていなかったながら、感慨深いものがあった。

披露宴で友人の方々からの催しやメッセージで、笑顔と感涙を浮かべる新郎新婦。
その空間にいるみんなが、人生の節目を、新しい門出を迎える二人を祝っている。
幸せとはあたたかいものだと聞く。
確かに、その場を共有したぼくも、暖かく柔らかな空気を感じていた。
新婦の妹さんに「一緒に撮ってあげる」なんて言われて前に押しやられて。
新郎新婦の間に入ったのだが、どこからともなく「......だ、誰?」「誰?誰誰?」なんて言われる始末。
「すいません、新婦の従兄です」
「そらわからんわ」一同笑顔。
何から何まで、幸せに進んでいくようだった。

結婚式とは、一生のうちで数少ない、新郎新婦が主役になる場所だという。
しかし、ぼくは新郎新婦を含めた全員が、二人のために幸せを紡ぐ時間だと感じた。
新郎新婦に向けられている祝福の心、それが見えない蒸気のように、披露宴の会場を包む。
幸せとは分けつ分けられつつ享受していくものなのだなぁ、なんて。
伯父に「次はあんたのばんやな」なんて冷やかされ、苦笑が漏れる。
「幸せ」という単語を何度も反芻しながら、ゆらゆらり帰路についたのであった。

惜しむらくは、我が不仲の兄と、今回も和解に至らなかったことか。
まあお互いいい歳なので、そのうち、そのうち。

2010年11月25日

ヌーボー!

ボジョレー・ヌーボー

ボジョレー・ヌーボーをいただいた。
もちろん、お店にお金をちゃんと支払っている。
なので「飲み屋で飲んだ」が正しい。

別にぼくはボジョレーの初物を解禁を楽しみにしているわけでもなく。
いったいどこがありがたいのか、といぶかしんでいたくらいだ。
駅前にできたフレンチ居酒屋のマスターは
「とりあえず、フランス料理やし入れようかとは思ってます」
なんてどっちつかずの発言をし、よく行くバーのバーテンさんは
「ボジョレーのこと寸前まで忘れてたんですよねー」
なんて酒商売らしからぬことをおっしゃる。
ほんとうに、ボジョレー・ヌーボーはそんな大層な酒なのか。
聞くところによると、ボジョレーの新ものを珍重しているのは、本国フランスと、日本だけだそうだ。

しかしながら、前述のフレンチ居酒屋が
「ちゃんと入れますよ」
なんて声をかけてくれていたこともあり、解禁の翌日、そのお店をたずねた。
「じゃ、さっそくですけど」
と言うと、笑顔でボトルをもってきてくれた。
静かにグラスへ注がれていく紫紺。
注がれたボジョレーを口に含み、ゴクリ、と飲み込む。
これが、うまい。
すっきりしていてほんのりとした甘みがあって、しかもしつこくなくて。
ジャブジャブ呑めそうなくらい、口当たりがいい。

いつか、とある人に言われた。
「自分がもの食べる前に、『これってどんな味?』って聞くんは失礼やで」
自分の口で味わうワインは、とてもおいしく、味と香りのすばらしいものだった。

2010年11月18日

いつのまにかコミュニケーション

コーヒー・ブレイク

ブログの更新をさぼった後、知人に会うと
「ああ、ひさしぶり!最近見ないから元気かなと思ってたんだよ」
なんて声をかけていただくことがある。
残念ながら生きております。
更新を再開すると、mixiの足あと機能が便利で、日記が更新されるたびに足あとが増える。
足あとが増えているということは、すなわちブログを見に来てくれている人がいるということになる。
ただただ感謝。

それがツイッターの流行によって、今度は意識していない人にまで、ぼくの近況が見られている。
「旅行楽しかった?」
「自分また引っ越したらしいな」
「今日また遅刻したやろ?」
まさに、トゥルーマン・ショー。
もっとも、監視させているのはぼくなのだが。

とある人が「ツイッターでみんな『なうなう』言ってるけどそんなに寂しいのか」と指摘していた。
この「寂しい」という表現、当たらずとも遠からずではないか、とぼくは思っている。
寂しいから誰かに見てもらいたいわけではないが、誰か見ているはずなのに、黙っていることに違和感を感じる。
リアクションの有無はべつに重要ではなくて、人のいるところに自分が発言していることを意識して、みんな「なう」するのではないか。
もし対面の相手なら、一方的な会話でもいい、無言に苦痛を覚えることもあるだろう。
黙っていることが苦痛だから、つぶやく。
そこに相手の有無は関係ない。

デジタル時代のコミュニケーション。
そこに必ずしも相互性は必要ないのだろう。

2010年7月22日

所詮は紙とペンの代わり

中崎町・サクラビル裏の路地

iPadが欲しいだの、新しいMacが欲しいだの、我ながら物欲の塊だなと呆れるばかり。
それこそiPadなんか「もし手元にあれば、ああいう使い方ができるなぁ」なんてイメージまでできている。

しかし、「ぱっ」と衝動買いしてしまうのは、前回書いたレコードプレイヤーとか、書店で見かけた本とか。
なぜか、アナログなものに興味を惹かれることが多い。
東京にあこがれていたはずのぼくが、何故古きよき時代の面影を残す中崎町に安らぎを覚えるのやら。

ぼくは手帳でのスケジュール管理が苦手だったのだが、iPhoneとMacを使うことでスケジュール管理に成功している。
そんなぼくでも、「iPhoneあったほうがいいと思う?」という質問に対しては、いつも「ないならないでいいと思う」と答えている。
確かにiPhoneを使うことでぼくの生活様式はスマートになったが、手帳で予定管理している人に、果たしてデジタルなスケジュール管理は必要なのか。

デジタルなツールの話をするとき、よく「紙とペン」が引き合いに出される。
紙とペンに電気は要らない。重さは比べるまでもなく軽い。
ハイテクなものに魅力を感じたとき、一度それが何をするためのものか、立ち返って見た方がいいかもしれない。
「結局アナログなものにかなわない」なんて原理主義的な考えは、また見方を曇らせるけれども。
紙とペンで事足りるのであれば、その人はきっとiPadなんて絶対必要ないのだから。

2010年7月13日

メロディはくるくる回る

レコードプレイヤーとChantal GoyaのLP

アナログのレコードプレイヤーがうちにきた。
ウクレレ教室のレッスン時、先生に「レコード聴かへんの?」と突然尋ねられた。
ぼくが「レコードは何枚かあるんすけどねぇ」と答えたら、プレイヤーを引き取ってくれないかとおっしゃる。
プレイヤーは欲しいけどどうしたものか。
迷っていたら、先生おすすめのレコード2枚もつけてくれるという。
ここまで押されたらもう後には引けず、重量のあるプレイヤーを担いで、うちまで帰ってきた。

棚の上にある物を無理矢理押しのけて、プレイヤーを設置。
設置場所がないのでテレビから出力という、なんとも申し訳ないセッティング。
何はともあれ、適当に手を取ったレコードを乗せて、スイッチを入れる。
レコードが静かに回り出す。
ゆっくり、そっと針をレコード盤の隅に落とす。
テレビのスピーカーから、ジッ、というノイズが鳴る。
そして、ノイズとともに音楽が流れてくる。

なんと言えばいいのか。
当たり前だけど、iTunesなんかで音楽を聴くのと全然違う。
ディスクを回し、針を落とす行為が、音楽を聴くという行為を能動的にさせてくれるよう。
それが作業用BGMであろうと、「さあ、これから音楽を掛けるぞ」という心構えが出てくる。
レコードで音楽を聴くってのは、ある種の儀式のようだ。

アナログかデジタルかといった、無粋なことを申し上げるつもりはない。
ただ、レコードで音楽を聴くことは、音楽と向かい合う丁寧な行為のような気がした。

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