想の最近のブログ記事
2011年7月18日
住んで都に
今の部屋へ引っ越したのは、たしか一昨年の12月。
かれこれ1年と半年経っていると思うと、ただただ驚いてしまう。
失恋。
辛気くさい話だが、部屋を移ったきっかけがそれだ。
あれ、そのとき既にこのBlog始めてたような。
ということで当時の記事を確認してみたが、失恋云々の話は避けたようだ。
今でこそ、こうサラリとBlogの記事にできるわけだけれども。
ともかく、その当時のぼくは事実から逃げていたことは確かだ。
前向きな新生活を建前に、自分と向き合うことを避けた。
その結果か、体裁だけで口にした新生活は、自宅以外で送ることが多い。
この街は、ただ寝るだけの街になっている。
まったく、せっかく住むなら少しはいい環境、
なんて考えたのがもったいない。
当時のBlogには「かつて働いていた街」とか書いていたのに、
このあたりで知っているのは、
近くに店構えのすてきな洋食屋さんができた
フリーター時代に通っていたおにぎり屋さんが健在
マンションの裏にバイオリンの工房がある
近所の中華料理屋は案外うまい
くらい。
誰でも知ってるような、誰でも行きそうなところ。
自分に蓄えられているこの街の情報はその程度。
もう少しくらいはわかっているつもりだったのだが......。
つい先日、お世話になっている人に
「どこそこにある古本屋面白いけど行ってみた?お前絶対好きそうやで」
なんてことを少し前に言われ、今日ふとそのことを思い出した。
場所は、およそぼくの家から自転車で5、6分といったところ。
幸いにして、お店の名前はiPhoneにメモしてある。
手帳じゃないのは無粋と思えど、ITを活用するのも今の生き方である。
店の名前と、インターネットで調べた地図をたよりに、そのお店へ足を運んだ。
そこは、とてもとても小さなお店だった。
適度に間隔を開けてレイアウトされた、本棚やテーブル。
書棚を眺めてすぐ「あっ」と心の声が上がった。
読みたかった本、ずっと気になっていた本、ぼくの好きな本。
ぼくと店主の趣味が似ているのか、ぼくの琴線に触れる本が並んでいた。
こんなお店が自分の家から数分で行ける距離にある。
そう考えるだけでわくわくしてきた。
教えてもらわなければ、足を運ぶ前にまた引っ越しをしていたかもしれない。
すてきなお店、すてきな公園、すてきな人。
住めば都、なんて言葉はあれど、住んだだけでは都にならない。
都とするならば、自分からそこをよき地であると言えるようにならなければ。
小さな古本屋さんとの出会いが、ぼくに不思議な視点を与えてくれた。
幸か不幸か、しばらく引っ越すつもりはない。
数ヶ月、数年経ったとき、自分はこの街をどう見ているだろう。
体裁だけの新生活から、本当の意味で新生活をはじめよう。
今度はぼくが「なになにってお店、いいですよ」って言えるように。
2011年4月25日
むつかしいよ人生は。

平日の頭に。
誘われたら断れないタチ......というわけでもないのだが。
断る理由がない以上、楽しい誘いには乗る主義で。
帰りの電車ではもんもんと(でもゲームしながら)仕事のもやもやを考えてた。
あれしなきゃな、あの仕事どう手をつけよう、そういや連休の予定決めないと、あっ負けた。
そんな感じで大阪まで戻って来てのお誘い。
ガスを抜けるときに抜いておく。
そんなことを言い訳にして、ふらっと顔を出してしまった。
ほんの1、2杯飲んだだけだけど、それは心地よいひと時で。
「お酒なんて現実逃避ですよ、お客さんにはただ楽しく飲んでもらえたらそれで、ね」
とは、とあるバーテンダーさんの言葉。
親しい人とお酒を飲む、それだけで世界は楽しく美しいと思える。
楽しいと言葉にできる。
そのことに感謝。
帰ってからFacebook見たりTwitter見たり。
これはまたいつもの自分。
孤独をごまかすために、世界とのつながりを気取る。
能天気な書き込みに混じって、不穏なことを書いてる人もいる。
個人的なことだったり、社会的なことだったり。
特に、個人的な煩悶を目にするといたたまれない気持ちになる。
つい、自分に何かできることはないかなんて考えてしまう。
これが余計なおせっかいだとは気づかずに。
その場しのぎで人を助けることが、必ずしも双方の救いになるとは限らず。
そんなことを思ってから、もう一度「自分にできることは何か」を考えてみる。
何もない。いや、何もしない。
見守り、相手を信じることならできる。
その人の行動・選択を信じ、見守り、心から祈る。
病な自分にできる、精一杯のこと。
半径1mのことしか考えられないバカなりに、遠い彼方のことを想おう。
2010年11月18日
いつのまにかコミュニケーション
ブログの更新をさぼった後、知人に会うと
「ああ、ひさしぶり!最近見ないから元気かなと思ってたんだよ」
なんて声をかけていただくことがある。
残念ながら生きております。
更新を再開すると、mixiの足あと機能が便利で、日記が更新されるたびに足あとが増える。
足あとが増えているということは、すなわちブログを見に来てくれている人がいるということになる。
ただただ感謝。
それがツイッターの流行によって、今度は意識していない人にまで、ぼくの近況が見られている。
「旅行楽しかった?」
「自分また引っ越したらしいな」
「今日また遅刻したやろ?」
まさに、トゥルーマン・ショー。
もっとも、監視させているのはぼくなのだが。
とある人が「ツイッターでみんな『なうなう』言ってるけどそんなに寂しいのか」と指摘していた。
この「寂しい」という表現、当たらずとも遠からずではないか、とぼくは思っている。
寂しいから誰かに見てもらいたいわけではないが、誰か見ているはずなのに、黙っていることに違和感を感じる。
リアクションの有無はべつに重要ではなくて、人のいるところに自分が発言していることを意識して、みんな「なう」するのではないか。
もし対面の相手なら、一方的な会話でもいい、無言に苦痛を覚えることもあるだろう。
黙っていることが苦痛だから、つぶやく。
そこに相手の有無は関係ない。
デジタル時代のコミュニケーション。
そこに必ずしも相互性は必要ないのだろう。
2010年8月25日
死を報道したがる人々のレース
今敏という映像監督が亡くなった。
主にアニメーションを製作されていて、独特の映像美や情景描写で見る者をとりこにする、そんな監督だった。
ぼくもこの監督が好き......といっても、アニメ作品を数本くらい見ただけだったが。
ぼくがその「うわさ」を知ったのは、Twitterに「おはよう」と書き込もうとしたタイミング。
タイムライン上に、まさかと疑う人が大勢おり、ぼくもそのなかの一人だった。
どうやら、監督にちかい人が、Twitterやmixiでそのことを書いたため、一気に情報が広まったらしい。
ただし、これはあくまでTwitter・mixiにおける「個人の発言」が情報元で、信憑性がほとんどない。
オフィシャルな情報を見るまでは信じない、そう決めて、SNSやニュースサイトの動向を伺うことにした。
しかし、この「インターネット上にあふれる言葉」が、とても異常だった。
とにかく、きもち悪かった。
インターネット上の人々やメディアは、こぞって「我先に」と情報を流す。
未確認情報なのに追悼メッセージを書き込む人、死去に関するスレッドを掲載する2chまとめサイト。
なかには、さきばしったニュースサイトが「○○監督死去!?インターネット騒然」という記事を掲載する始末。
そんなに人より先に「今敏が死んだぞ!!」って言わないと気がすまないのか?
本当に死んだかどうかわからない情報を伝えないといけない理由でもあるのか?
昼さがりごろ、とうとう公式サイトからオフィシャルな訃報が出された。
さらに、監督本人の最後のブログとして、遺書も掲載された。
ぼくは、ここで初めて監督の死を事実だと受け止めた。
監督がこの世を去り、もう新たな作品が作られない事実への残念な気持ち。
それと、結果としてほんとうだったとはいえ、こぞって「他人の死」を口にしたがった人々にもってしまった違和感。
ただただ複雑な心持ちで、朝の「うわさ」から夕方の「発表」までをなぞらえた。
インターネットには嘘がいっぱい、と揶揄される。
どちらかと言えば、嘘というより信用できない情報、と言った方がいいのかも知れない。
つくづく、情報は鮮度よりも信頼性だと感じる、そんな一日だった。
以下、余談。
あらためて、今敏監督の「パプリカ」を見たが、やっぱりおもしろかった。
監督の生死は関係なく、面白い作品は世に残る。
だからこそ、ぎりぎりまで最後の作品の製作に取り組まれたのだろう。
監督の最後のブログによると、ほんとうに死の直前まで、製作に携わっていたそうだ。
ご本人が全てを手がけた作品はもう見られないけれど、それこそ命がけで最後まで製作に向かい合う気迫をもった監督の作品。
これから少しずつ、残りの作品も楽しませていただきます。
早すぎる他界ではありますが、本当にお疲れさまでした。
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こう表現するのか という 発見の楽しみ
夢
キャラクターデザインがいけない
面白いじゃないか!!!
原作を読まずに観賞しましたが2010年7月 4日
留め、伝える
明日は、母方の祖母の3回忌。
その前日である今日、親戚一同があつまって、法事が執り行われた。
一同と言っても、母方の一族である僕たちと、伯母の一族であるいとこ一家だけ。
祖母にはもっと親戚・身内がいて、何人かは健在のはずなのだが、何故母や伯母がその人たちに連絡をしないのかは不明。
もしかすると、いとこや母たちは、僕の見知らぬ親戚に会ったことがあるのかもしれないが。
一通り法事が済んだあと、一同が並んで記念撮影をした。
そんなことをすると思ってもいなかったので、当然だれもまともなカメラは持ってこず。
結局、母のケータイについているカメラで写真を撮ることになった。
苦笑いのような、むすっとしたような。
自分の少し戸惑う表情が、頬から伝わってきた。
祖母のことは、彼女が他界してから知ったことの方が多い。
葬儀の前夜、いとこが、祖母のアルバムを引っぱり出してくれた。
そこにあるのは、紛れもない祖母が観てきた記憶の一部分。
祖母が何十年も前に見てきた風景を、写真を通してぼくが見る。
モノクローム写真ではあったが、飛び越えた時間が印画紙の中に広がっていた。
家族や親戚が集まると、記念撮影といって、皆が一列に並ぶ。
ぼくは天の邪鬼なので、「今ここにいることが大切なのに、記念する必要性がどこにあるのか」と考える。
でも、残された人の為に写真を撮るのだと考えたら。
記念撮影の意味や価値ってのは、あとからついてくるものなのだろう。
2010年7月 3日
忘れては行けない時の流れの中で

大阪で一番好きな町はどこかと聞かれたら、中崎町と答えている。
中崎町とは、戦火を逃れた住居が立ち並び、一部はカフェや雑貨屋として営業している、古い町並みを堪能できる町。
昨年は、その気持ちがたたって、中崎町に部屋を借りたりもした。
今でも髪を切るときは、中崎町にまで足を運んでいる。
その町並みを散歩している間は、日々の喧噪から離れて、ゆったりとした時の流れに溶け込むような気持ちになる。
こんなレトロな町並みに憧れを抱くぼくだが、普段の生活は完全にデジタル的だ。
音楽はMacで聴き、iPhoneを手放す生活が考えられない。
Twitterやmixiで世界とつながっていないと、不安で仕方ない。
知人に、手作り時計の職人を営む女性がいる。
古いビルに店を構えていて、オーダーをするとハンドメイドで時計をあつらえてくれる。
先日お店におじゃましたら、「Macの画面に線が出てえづらくなっている」と言っていた。
見ると、もういつ画面が映らなくなってもおかしくない状況というくらいに画面が乱れている。
そろそろ買い替えだと告げると、彼女は「もったいない、まだ動くのに」と答えた。
ぼくらIT系の人間は、パソコンは消耗品で、時期が来たら買い替えるものと思い込んでいる。
しかし、本当に大切なのは、物を新しくすることではなく、日頃使っているものを長く大切に使うこと。
ないものはないと受け入れる、その余裕は、ずっと、忘れてはいけない。
2010年7月 2日
シャボンの香りの向こうがわ
自宅で、無印良品の香料が入っていない石けんをつかっている。
たまたま無印良品に行ったとき目に留まったものだ。
包みには、無愛想な白い固形が二つほど入っているばかり。
無印良品では、フルーツの香りがついた、カラフルな見た目の石けんも売っている。
しかし、その無愛想なふたつ白い固まりは、カラフルな石けんのひとつ分よりも安い。
貧乏暮らしな僕にはこれで十分だろう、ということで、迷わずその安石けんを買ってしまった。
お風呂でこの石けんを使ってみると、ほんとに香りがない。
しいていえば、石けんの主成分である、油がほんの少し匂うだけ。
で、この石けんで体を洗っているとき、ある疑問が湧いてきた。
「石けんの香りって、いったい何?」
よく芳香剤やその他香りのする商品で、「石けんの香り」と称して売っているものがある。
そして、「石けんの香り」と言われたら、ぼくらはあの柔らかな香りを想像できる。
しかし、本当の石けんは、なんのにおいもしない。
一般的な石けんは、心地よく使うため、花の香りか何かを添加しているのだろう。
つまり、あれは石けんの香りではない、ということになってしまう。
とはいえ、あの香りは、多くの人にとって「石けんの香り」だ。
それは、ぼくらが生まれながら与えられた普遍的な情報に近い。
当たり前と思っていても、少し掘り下げたり角度を変えるだけで、まったく新しい見え方をする。
だからこそ、この世界への興味は尽きないのだろう。
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