2009年11月アーカイブ

2009年11月28日

陽性

数日前、同居人が突然の発熱。
手元にあった風邪薬を飲ませるも、いっこうに回復の兆しを見せない。
一行によくならないものだから、近くにあった病院の総合内科を受診。
簡易インフルエンザ検査を受けたところ、まさかの「陽性」診断。
まぎれもない「新型インフルエンザ感染」である。
まさか、自分の一番身近にいる人間が保菌者になってしまうとは。

診察の帰り、家でおとなしくしなきゃねー、俺初めて新型の人見たよー、なんて冗談をとばしていたけれども、実際はこれだけで片づかない。
帰宅後、さっそく家族がインフルエンザに感染した旨を、会社の上長に、メールで報告。
即刻、折り返しの返事が来る。
内容は、「明日から三日間の出勤停止を命ずる」。
職場のルールで、インフルエンザ感染の場合、数日の間は出社が禁止されてしまう。
このルール、本人のみならず、同居家族が感染した場合も、潜伏期間の疑いがあるということで、全くの健康体であるぼくも、自宅待機する羽目になってしまった。

普段の自分なら、三日間の休みなんて大喜びだったろう。
しかし、感染を広げないよう自宅待機、というのが会社命令。
そもそも、予定がないので、ひたすら家でボーっと過ごすのみ。
ただただ退屈。
結局、ほとぼりが冷めて出社したのが金曜日。
したものの、会社に来たら来たで、あまりすることがなく。
家にいても会社にいても、退屈には変わりない自分が少し残念。

ともあれ、みなさま、くれぐれも注意を。

2009年11月20日

運搬

大がかりな席替えがあり、一日まるまる肉体労働。
机を運んだり、ほかの部屋の状況を確認したり、などなど。
まだ入ってまもなく、明確な仕事があるわけでもないから、肉体労働であっても、作業があるだけありがたい。
自分のチームから移動する人は誰もいないため、ほとんどほかのお手伝いばかりしていた。

今日の移動に向けて、何度も事前会議に呼び出されてちんぷんかんぷんの話を聞いたり、誰かにお願い事のメールを送ったら「送り先が違う」とどやされたり。
大がかりな予定表や作業担当表なんてものも用意されていて、なれない現場でいきなりの壁だな、などとびくびくしていたのだけれども。

実際のところ、常に誰かが動き、常に誰かが人を手伝っていた状態。
全体が自主的に仕事を手伝ったおかげで、かなり早い時間に、管理者からの「お疲れさまでした」メール。
事前準備があってこその、なのはわかっているけれども、予定はあくまで予定。
決定事項ではなく、大筋に沿って作業し、目標時点の状態に大きな間違いなく進行すればいいのだ。

なんてことを考えつつ、帰宅の準備をしていたら、チームの人が困った顔でやってきた。
「あそこの机がまだぜんぜん動かせてないけど、どうしよう」
言われた場所に飛んでいくと、よけいな荷物を山積みにされて、完全に荷物置き場状態のデスクが一台。
大慌てで、荷物をどけて、PCなどの設置作業。
予定は未定、それはマイナスの意味でもしかりである。

2009年11月19日

次、止まりません

今朝、うっかり電車を一本乗り過ごしてしまった。
普段からあまり早い時間とは言えず、ギリギリ乗車を繰り返していたが、今日はギリギリアウト。
快速のドアがしまった瞬間、「しまった」という単語が頭によぎった。
ダジャレが浮かぶくらいだから、さほど焦ってはいないけれども、少しのんきに行動を取りすぎたらしい。

ぼくの勤務先だが、これまたこれまた絶妙なくらい中途半端な駅が最寄りである。
新快速は停車しない、快速はなぜか停車するものと通過するものの2種類。
このうち、普段自分が乗っているのは「最寄り駅に停車する快速」。
この次に来るのが新快速、その次が「最寄り駅を通過する快速」。
しかも、このどちらに乗って、途中で各駅停車へ乗り換えようにも、その乗り継ぎ駅止まりの電車が2本、連続してやってくる。
なので、普段乗っている電車を乗り過ごすと、ほぼ遅刻が確定になる。

今日は遅刻かとあきらめて、思い切って、次の新快速に乗りこんでやった。
しかも、各駅停車への乗り継ぎ駅を無視して、勤務先の最寄り駅を横目に、次の大きい駅で降車。
この駅からの折り返しで最寄り駅に向かったほうが、乗り継ぎ駅で次の各駅停車を待つこともなく、ラクだと考えたから。

なんてことを考えていたのだけれども、なんと、このルートで会社に間に合ってしまった。
意外や意外、普段の到着時刻より5分程度しか変わらず、会社に到着。
これで明日から一本遅れられる、なんて甘えちゃいけないが、ダメと思っていても、工夫や考え方次第で結果が大きく変わることを改めて実感した。

2009年11月18日

ヒト撃退機

最近、自宅マンションの入り口に、野良猫侵入撃退装置なるものが設置された。
ネコには不快な「モスキート音」を発生させることで、野良猫の侵入を追い払う、というこの装置。
人間には聞こえないはずの高周波音なのだが、自宅マンションのエントランスを通る度に、突き刺さるような高周波の音がしっかり耳に入ってくる。
自分だけかと思ったが、一緒にエントランスを出た同居人も顔をしかめているあたり、ネコだけじゃなく、人間への撃退効果もあるらしい。

自分はネコ好きなので、こんなものなんのためになるんだろうとか思ってしまう。
むしろ、聞こえてくる不快音によって、よけいなクレームを上げたくなるくらいだ。
しかし、マンション管理人からすれば、糞尿やマンション前で果てているネコの亡骸を処理しないといけない。
もしこのネコ撃退機の効果がてきめんで、マンションに侵入してくるネコが激減すれば、管理人氏の仕事をひとつ減らせるのだ。
自分が不必要と思うものであっても、それがあるだけで仕事がラクになる人だっている。

ただ、肝心のノラネコはというと、撃退装置をうまくかわしているのか、それともはじめから効果はないのか、相変わらず、敷地内の駐輪場などで、かくれんぼしている姿を見かける。
やっぱり、このネコ撃退機は必要ないんじゃないかな。
そんな疑問を頭に浮かべながら、今日もモスキート音を頭に受けて、しかめ面を浮かべながら、自宅の入り口をくぐるのである。

2009年11月17日

ミス

ほんとうに些細なことだが、仕事でひとつミスをした。
正確には、ある仕事について、自分がこうだと思っていた対応を示したところ、目上の人から「それは違う」と否定されてしまった、というところ。
自分は、何でも思いこみやすく、ため込みやすい性格だ。
何かミスをすると、ほかの仕事でもミスをするんじゃないかと、自分への猜疑心におそわれて、仕事が手につかなくなる。
まさにそんな一日で、自分が迷わず進もうとしていた道が、間違っていると示される。
進もうと思っていた道が違ったのだから、じゃあどちらに進めばいいのかと、混乱を起こす。
こうなってしまうと、自分ではどうすることも手に負えない。
ありとあらゆるものが、間違い何じゃないかと思いこんでしまう。
まったく別の問題である、自分が手持ち仕事すべてが「ノー」なんじゃないかと、思いこんでしまう。

こういうとき、問題を解決する方法は、ただ一つ。
しかも当たり前かつ簡単な方法。
知ってる人に聞けばいい。

切るべきカードを、自分が持っていないのなら、持っていそうな誰かに、代わりに切ってもらえばいい。
結局、自分が悩み詰めていた問題も、ほかの人に聞いてみたら「ああ、じゃあしゃあないな。ここは......」とあっさり対応を明示してもらえた。
他人の人生相談・恋愛相談を聞いてみると、たいていはすぐ自分の答えを指し示せるのと同じ。
自分が悩んでいることの8割は、第三者からしてみると他愛もないことのようだ。

2009年11月16日

不便で得られるもの

諸事情で、役所で事務手続きに行ってきた。
会社には「区役所にて手続きを行うため」という理由で届けを提出。
本当は、区役所の用事なんて、朝一番に窓口に行けば、午後から会社に出社することだって可能だ。
でも、今回は、迷わず丸一日の休みをいただいた。
休みを取るときに、「私用のため」と伝えるより、「区役所での事務手続きのため」と上司に伝えるほうが、なんとなくだけれども、抵抗感を軽減できるのは気のせいだろうか。

日本政府が、まるでお題目のように唱えたIT革命。
行政サービスも、どんどんインターネットやモバイル窓口を開設している。
にも関わらず、もっとも身近にるはずの住民サービスは、職員の捺印作業から抜け出せずにいる。

行政が不便だからこそ、ぼくのような社会人は、「役所に行くため」という理由で、会社から抜け出せるわけだ。
もちろん、実際区役所にいたのは、ほんの30分ほど。
手に入れた暇でなにをしたかと言えば、真っ昼間から寿司とビールで酒宴を楽しんだり、友人を無理やり集めて街角散策と食事を楽しんだり、などなど。
みんなささやかで、しかも、休みの日にできることばかり。
それが平日になると、途端に贅沢かつ貴重なものに思えてくる。

この国では、会社に所属したとたん、休暇を取得することに罪悪感を感じる、という悪い慣習がある。
しかし、だからこそ、時々手に入れた休みに、何か特別な充足感を得ることもできる。

ものは考えよう、である。

2009年11月15日

時間が経つ

個人的な用事で、実家へ帰省した。
と言っても、両親と同じ大阪府下に住んでいるのだから、帰ろうと思えばいつでも帰られる。
しかしながら、実際に帰省するのは、実に1年近くぶり。
散らかった部屋に、統一性なく並べられた置物、母が必要以上に買ってくる椅子。
配置こそ変われど、ぼくが住んでいたころとなんら変わらない。

はずなのだけれども、なぜか落ち着かない。
居心地自体は変わらないはずなのだけれども、なんか感じる空気にそわそわしてしまう。
その正体は、不愛想に椅子の上で眠っているネコと遊んでいるときに気づいた。
昔はデブネコ呼ばわりまでした白ネコが、いまや、あばらの筋が見えるくらい、痩せ細ってしまった。
背中をさすると、「みゃあ」とか細い返事。
その声で、気づいたことがある。

時間が経った。
ただそれだけ。

同じ感覚を、ここ数年で2度味わった。
一度は、は祖母が亡くなったとき。
一度は、実家のインコが亡くなったとき。
何かが朽ちていくのを目の当たりにしたとき、無情な時間を実感してしまう。

ぼくが実家を出てから、3年くらいしか経ってない。
それだけの時間で、多くのものが歳を取ってしまった。
それは、もちろん僕も同じ。
これを意識しているかどうかで、一分一秒の価値観は大きく変わってくる、そんな気がする。

あと何十年、いや何年生きられるかわからないけれども。
「いい人生だった」
この一言を書ける、そんな人生を目指せたらいいなと、心から思う。

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